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勉強する時は抽象度を上げるべし

前回までの記事で再帰動詞の概念を一般化するために、英文記事を翻訳してきたわけだが、これにはちゃんと意味があり、ワテが尊敬する苫米地英人博士がいうところの「抽象度を上げて物事を見る」ということに他ならない。

 

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(時間の概念について説明する苫米地博士。一見偉そうにしているのも理由があり、リラックスしている方がIQが上がるから。ちなみにワテもこれを真似して顰蹙を買ったことがある。人と話す時に実践するのは諸刃の剣といえよう)

 

どういうことかというと、まず抽象度を上げるとは、情報がパソコンのフォルダのように階層構造になっていることを想像し、その階層を上がっていくことである。

 

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ペットのミケの一つ上の抽象度はネコ、その上は哺乳類、更にその上は動物といった具合に情報の階層を上げていく。上に行くにつれて情報は減っていく。

 

純化して言うと「木を見て森を見ず」と逆のことを突き詰めて行くことで、世界がより明確に把握でき人生が豊かになると苫米地博士は言っているのだ。

 

これを学習に応用する。例えば接続法を使用するのは、願望、命令、許可、禁止、忠告、提案、推測、疑念、感情、価値判断などを表す時である。これを全て覚えるのは大変だが、抽象度を一つ上げて「頭の中で思い描いたことを表現する時」と覚えると情報が減り、一気に楽になる(過去の事実を描写する時等、これ以外にも用法はあるのだが、それでも覚える「フォルダ」は格段に減っている)。パソコンのファイルを操作する時も、一つ一つやるのではなく一つ上のフォルダをまとめて操作すると一括で出来るのと同じである。

 

※ただし抽象度を上げるには下位階層の情報を大量に知っていなければならないという、ある種のジレンマがあるのだが。何事もそう簡単にはいかないのだ。ちなみにジレンマdilemaなどmaで終わる学術用語はギリシャ語由来で、全て男性名詞である(problema, programa, clima, tema, lema, sistema, idioma etc.)。

 

 

再帰動詞も、感情・利害関係・行為の全体性・目的終着性の付与→「主観の付与等」と、接続法の例ほどはすんなりいかないまでも、ある程度の全体像を形作ることが出来ることはわかるだろう(この際再帰受身や無生物主語は省略)。

 

 

 

しかしながら、日常的に勉強している人はこれぐらいのことはやっているだろうことは容易に推定できる。それなら更にもう一つ抽象度を上げてみるとどうなるだろう。

 

 

 

 

少し難易度が上がるが、例えばワテは、「そもそもなぜ接続法を使うのか」という一例を考えた。

 

それは一つは、事実と混同すると不都合が生じるから、ということがあるだろう。これは日本語でも「~らしい」を使うことと似ている。例えば伝聞した内容を「らしい」抜きで話すと意味が変わってくるだろう。

 

桐島、部活やめるってよ

「桐島、部活やめるらしいよ」

 

これらを念頭に置いているのといないのとでは、目視で縦列駐車をするのと、鳥瞰カメラでするぐらいの違いがある。

このように想像力を働かせながら抽象度を上げていくと、かなり学習の手助けになる。

 

更に抽象度を上げて、スペイン語話者がどういう気持ちでスペイン語話しているのかを想像してみた。例えば、

                             → ⤴ ⤵

Si me tocara la lotería, ~(接続法過去形)(スィ メ トカーラ ラ ロテリーア)

                        → → ⤴

Si me tocará la lotería, ~(未来形)(スィ メ トカラッ ラ ロテリーア)

 

どちらも日本語にすると「もし宝くじが当たったら」だが、↑のように発音してみると

前者は

「万が一当たったら、仕事辞めてえよなあ」(長時間労働に耐えながら、死んだ目で)、

後者は

「もし当たったらさあ!仕事辞めて南国で暮らそうぜ!」(目を輝かせながら)

的な、感情の違いが伝わってくるのではないか。

 

 

 

 

 

歴史研究家の原田伊織氏いわく、「歴史を考える時に重要なのは、当時の人々の感情、息遣いを想像すること」だそうである。これは言語にも言えることだろう。なによりホモサピエンスの世界の全ては言語で出来ている。

 

言葉とは言霊=魂である。その起源は相手にこれを伝えたいという魂の欲求だったはず。その衝動なくして文法は生まれ得ないのである。

 

とはいえ、細かい文法が不要であると言っているわけではない。時に枝葉末節に目を向けねばならない時もある。高い抽象度の視点にぶら下がりながら、階層間をrappelingする学習法をワテはオススメする。

 

しかしながら、人間はどうしてもスコトーマ(盲点)が生じてしまう。物理的な視野においても視神経の束が眼球の裏につながっている以上、その部分には映像は投影されないように、情報空間の視野も必ず盲点が出来る。であるからして、上にあげた例も正しいとは限らず、常に新しい情報を取り入れる、人の意見を聞く、普段やっていないことをやってみる、高い目標を設定する等して抽象度を上げていくしかないのである。